星空を見上げておもう。・・・相良憲昭前会長を悼む
名誉会長 加藤 玲子
・秋の陽射しを背に、三人の青年学者が、さわやかに談笑しておられた。
母、加藤いさ子と共に日本ユネスコ協会連盟のブロック研究会に参加した折のこと。村井吉敬先生(早稲田大学)、鈴木佑司先生(法政大学)そして、パリから帰国された相良憲昭先生。相良先生とは、この時初めてお目にかかった。さわやかな先生方の輪の中で、しばし時を過ごしたことをおもいだす。この方々が明日の民間ユネスコ活動を担われる、そんな予感を感じながら。もう、半世紀も前のこと。
・悲しい、そして辛い。折に触れて市ヶ谷に参るとき、車をアルカディアにとめる。そこに、相良先生のお席があることは承知していたが、お仕事中かもしれない、おられないかもしれないと、いつもお声をかけることに戸惑いをおぼえていた。最後に御目にかかれたのは昨年の初秋。お元気でおられ、運転免許を返上したと、さわやかに語られた。まさか、今年になられ病魔に襲われておられたなど、訃報に接するまで、思いのほかであった。
・かねてから、母、加藤いさ子を慕ってくださった相良前会長は、お忙しい中、わたくしの懇願を受け入れて下さり、目黒ユネスコ第七代の会長を受諾してくださった。その時、申し訳ないおもいと相良先生をおいてほかにおられないと心からの感謝を申し上げた。初夏の頃、そろそろお声をかけさせていただこうかと思いめぐらせていたときに、訃報をうけ、知らなかったとはいえ、お見舞いもせずに過ごしてしまった自分に怒りとやるせない思いに襲われている。そして、この現実を認めた
くない自分をみる。感謝の言葉も申しあげられなかったことを心から悔やむ。
・青年たちの活動には、必ず相良会長のお姿が、あの優しい笑顔と共にあった・・・。望月副会長が、ともに過ごされた活動の折の写真集「相良憲昭氏を悼む」を作成された。50頁に及ぶ力作の写真集は、青年たちの心にユネスコ活動を落とし込むべく努力されたお姿が音を立てて流れている。奥様も恵まれない子供たちのために全力を尽くされたとうかがっている。相良前会長の昇天されたあと、残されたご家族の上に平安をと祈る。
・冬の空は澄みわたり、星が美しい。相良前会長を含め、多くの先達がユネスコ活動を支えていただいたことに、あらためて敬意をささげたい。今宵もひたすら星空を見上げて思う。
・後に聖心女子大学学長をつとめられたご尊父、相良惟一先生のご勤務先パリのユネスコ本部にご家族と共にいかれたのは、小学校4年生の時とうかがつた。東京大学卒業後、パリ大学を経て文部省に入省。ユネスコ本部に14年間ご勤務。その間、大きな出来事がおこった。1985年、米英のユネスコ脱退である。その時、パリにおられた相良氏は、間髪を入れず「朝日新聞」に「日本は、アメリカに追従することを決してするべきではない」と投稿され、大きな反響を得た。日本ユネスコ協会連盟は、数納清会長、桑原武夫副会長、伊藤昇理事長を中心に政府等の各関連機関、全国のユネスコ会員に非常事態を伝え、辛くもこの事態を乗り切り今日に至っている。日本国の歴史的な節目に、大きな役割を果たせられた。
【惜別 事務局から】 相良憲昭先生が当協会の理事、会長に就任時から約十年にわたり、事務局長としてご一緒に仕事をさせて頂きました。叱咤激励の日々を経て、先生の意図するところを理解し、民間ユネスコ運動に共に邁進出来ましたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
定款検討委員会・東日本大震災復興支援活動・全国大会(2013)主催・青少年夏のつどい・ユネスコ文化講座講師(5回)・フランス語教室講師など多岐に亘ってリーダーシップを発揮されました。
また相良先生は、海外の文化、特に音楽にも造詣が深く、著書『音楽史の中のミサ曲』(音楽之友社1993)のほか、『モーツァルトの宗教音楽』 (白水社 1989)の翻訳など、音楽学(とくに宗教音楽)に携わっておいででした。
ユネスコ本部(パリ)でのお勤めや、帰国後は国連大学事務局長、京都ノートルダム女子大学学長という重責を果たされましたが、偉ぶらず、自慢もせず、我が儘なところもなく、どなたにも温かい声をかけ、弱い立場の方に思いやりの心を見せてくださいました。大勢の方に惜しまれてのお旅立ちでした。心からのご冥福をお祈りいたします。
事務局長 齊藤 眞澄
[投稿日:]